一夏をかけて
町中を歩き回った
苦い思い出
公開年
2013
監督
松村穂高
上映時間
50分
主演
キャメロン・マッケンジー
処女作「Mother’s Birthday」についてこれまで書いたことはなかった気がする。申し訳程度にポートフォリオの一部に乗せていはした。この映画は紛れもない私の映画第一作目である。アメリカで一番安い映画学校(大学学部)に通っていたので、在学中はいくつも作品を作ったが、脚本有りで長期間をかけて作った物語映画はこれだけである。いくつも作ったというのは、短編のvisual storytellingを含む映像で、学校の課題で作ったものとそうでないものがある。その内今でも公開している映像には例えば以下がある。
- 「Stylistic Pornography」(2010、学内課題)… https://youtu.be/LYXCApd0kz4
- 「An American Castle」(2011、学外)… https://youtu.be/jYTORSsAwr8
いずれも物語映画ではない。「Mother’s Birthday」(以降MBと記す)の撮影は2011年の秋~冬にかけて、アメリカのミネソタ州とノースダコタ州周辺で行なった。2011年いっぱいで短い4年間の大学生活が終わったので、編集は卒業後に時間をかけてやっている。完成年は2013年だから、卒業から一年半以上経過していた。この物語映画は冒頭の10分ほどを卒業制作作品として大学に提出しており、無事パスしている。卒業作品にこの類の労力を割いている同僚はほとんどいなかったので、冒頭10分で十分だったというわけだった。これを根拠にするなら本作は2割が学生作品で8割が社会人作品である。
セリフ過多のコメディ脚本
この作品の思い出話は尽きない。少し乱文になるがご勘弁を。この時点でも軽く走馬灯なので。元はと言えばこの映画の脚本は大学の脚本クラスの期末に提出した短編映画の脚本だった。映画の名前は同じで「Mother’s Birthday」、つまり「(お母さんの誕生日)」である。なぜそんな名前だったかというと、ストーリーそのままである。もともとこの映画はコメディだった。とある夫婦と、父親似でできの悪い高校生の長男と、母親似でスマートな中学生の次男の家族の物語である。話は何てことはない、親父がとある晴れた日曜の午後遅く、今日が妻の誕生日であったことを思い出すというもの。金がなかいので、息子に金を借りようとするのだが、長男は当然持っておらず、次男のなけなしの金を強制的に巻き上げ、3人でウォルマートに買い物に出かけて、DVDを買って帰るが、当然母親にバレるという。その間に色々トラブルが起こるとまあそういう感じであった。ちなみに主人公は次男である。
卒業の一つ前の学期、私は2セメスター制の春入学だったから、つまり2011年の1月から始まる学期中に、次の最後のセメスターでやることになる卒業制作の脚本を固定しておくのが理想だった、そこで脚本クラスの最終課題で提出して曲がりなりにも”完成”している「Mother’s Birthday」の原案で卒業制作をするのが最も効率的だと考えたのは良いが、どうも納得いかない。その理由は主に二つだった。セリフの多いコメディだったので、英語が第二言語の私にとってはコントロールが難しいと感じたこと。それは教授の助言でも同じ指摘を受けていたのだが。そしてもう一つは、95%以上の学生が白人の映画学部の中で、私を含めた有色人種の学生が数名いたのだが、そのうちの先達である中東系の学生Jが前学期に監督した卒業作品が悪夢だったことによる。なぜ悪夢だったのか。非常に恐ろしい出来事だった。
静まり返るオーディトリウム
映画学部の生徒が制作した作品は期末に大きな劇場で学内上映される。その知り合いの学生Jは卒業作品にシットコムっぽいコメディを制作した(効果音で笑い声をつけた)。期末の上映会といえばお祭り騒ぎである。血気盛んで自称天才のバカ学生たちや、地道に練りこんで自信なさそうだけど相当の作品を作ってる勤勉家、そして出来る連中が徒党を組んで制作したintermediateやadvancedクラスの作品はプロとはいえないまでもかなりクオリティが高い。そういう発表の機会だからオーディトリアムは観客でごった返す。もうみんなドキドキワクワクしている。アメリカ人らしく、リアクションは週末の映画館さながらで、笑ったり叫んだり、ツッコミを入れる学生も多い。そして学生Jのシットコムである…上映中、会場は静まり返り、誰一人として笑わなかった。
沈黙のオーディトリウム(どっかで聞いたような…
いうまでもなく、留学中には有色人種に対する差別は経験したし、我々有色人種は映画学部で仲間はずれだった。だからと言って面白い作品には素直に笑うのがアメリカ人である。だから別にみんな意地悪で笑いを押し殺していたわけではない。単に面白くなかったのである。30分くらいの力作だったが、会場の人間は一人も笑わず、効果音の笑いだけが鳴り響いていた。私は前の方に座っていたので、後ろに誰もいなくなったのかと振り返ったほどだった。で、運の悪いことに期末作品だから、上映が終わったら舞台に上がってみんなの質問に答えなければならない。そしてその中東系の学生が舞台に立つのだが、誰も質問しなかった。これは珍しいことであった。その彼の悲惨な勇姿を目の当たりにして、もしあれが自分だったら立ち直れないだろうと思ったのだった。流石に笑わせにかかって誰も笑わず、上映後に公開処刑されるのは御免である。そういうわけで、2011年の春学期中に「Mother’s Birthday」の脚本を1から書き直し、全く反対と言うべきかのドラマにすることにしたのであった。ドラマなら何とでも逃げ道があった気がしたのである。正味の話。
アメリカのポリコレ精神はある程度持ち合わせていた。全員黒人で脚本を書こうかと思っていたほどで、春学期のちょうど東日本大震災と時を同じくしたころ、南スーダン人の監督のDPをやったりしていたが、何しろ住んでいたFargo/Moorhead地域は住人のほとんどは白人だった。手配できそうにないリソースを前提にして脚本を書くと、卒業作品が完成しない可能性が高い。集められるリソースを見定めて限定する必要がある。となると登場人物は全員白人しかない。と言うより、映画学部には映画に出たい近隣住民、役者志望の子役などのリストがあるのだが、リストに載っているのは圧倒的に女が多く、特に子役のリストに載っているのが1、2人の男をのぞいてあとは全員女ばかりであった。人集めには大変苦労するであろうことはその時から見えていたので、子役を出すなら女にするしか選択肢がない。と言うことで主人公は中学生の男から中学生の女に変わった。これが初期の最も大きな変更であった。
可能な限り大きくただし実現可能な脚本を書くこと、
ちなみに、「Mother’s Birthday」の映画のスタイルは脚本時点で決めており、数年前に見た「Let the Right One In」を参考にしていた、と言うかしたかった。でも問題は本当に山積みだった。集められそうなリソースをちゃんと計算して脚本を展開すると言うのは理想だが、当時は自分で書いた物語映画脚本の初の映画化であったし、映画化するにはリソースが必要だし、全くなしで作ることはできない。キャストやクルー、ロケーションや、衣装や小道具その他など、1から探さなければならない。一生懸命考えながら脚本を書いたけれども、案の定結構長くなり、またある程度のリソースが必要だろうなと言う風にだんだんなってきて、と言うかゼロから1にするのが最も大変だと感じていたので、1が10になるくらいなら覚悟を決めればいいだけだと思っていた。そこらへんは根性の塊である。あと数年で三十路だと言う時にアメリカに学生しに行って、何もなくして帰ると言うのはあり得なかった。コミカレ時代から退路を絶っていたので成績は全Aだったし(最後の学期だけB+が一つあったはず)、目的を果たすためには時間と労力を惜しまなかったので、書いたは書いたであとは覚悟を決めるだけだった。しかも最後の秋学期までには長い夏休み(約3ヶ月)があった。これを全部使って撮影準備をすればいいと思った。と、これを読んでいる人の中には3ヶ月もいるのかと思う人もあるかもしれないが、正直足りなかったくらいである。だって、0からまず1にしなけらばならなかったから。
自分は安全地帯から出ずに、人と同じものを手に入れようとするやつは、大嫌いである。
ゼロからイチへ。2011年の夏ー、
まず、実写映画づくりのクルーを集めるにあたり、学部の学生にまず頼むのが定石である。実際問題、学部は学外からクルーを引っ張ってくることを禁止していたので、それしか選択肢はなかった。だが、前述の通り、我々有色人種は白人連中から疎外されていた。うまい連中はうまい連中で固まっており、一方の私は一匹狼で、反対に連中とつるむことを拒んでもいたから、打つ手も限られている。もう少し若い頃に渡米していれば、私の留学人生もまた変わっていたことだろう。歳をとると若い連中とつるみにくいのである。いちどはそのうまい白人連中の1グループからカメラをやらないかと誘いを受けたことがあった。学部内ではもっとも上手かったSのグループである。確かに、そこはアメリカのいいところで、優れた者は差別の敷居なく重用されることが多い。Sのグループはやっていることも群を抜いており、例えば当時発売されたばかりのシネマカメラのREDや、サブカメラとして5D Mark IIを使っていた。だがまあ、調子に乗るなと思って断ったので。学部内でも制作を手伝ってくれそうなやつはいたが、熱量が違いすぎるので、多分きてくれても撮影の1日2日くらいだろうという子が大半だった。かといって、同じ有色人種の学生は正直レベルが低かったので、メインを任せるわけにもいかず、またサポートで来てもかえって足を引っ張るだろうと感じていた。クルーでさえ一から探さなければならない。
結果的に、撮影クルーのうちDPと録音は学外から手配した。学部が禁止していたそのままなので、教授に直談判して説得しなければならなかった。この二人のコンビがいなかったらMBはできなかったといっても過言ではない。ジェイソンとケイシーである。そこらじゅうに募集広告をかけて、歩き回って頼みまくって、その過程でようやくこの二人と出会った。二人ともやる気満々で、プリプロからプロダクションと献身的に動いてくれた。照明は最後の学期にちょうど一年生として入ってきた日本人青年である。日本で自主映画をやっていたとかで、彼の非常に力になってくれた。他、助監督と制作助手は学部から頼んだが、案の定全ての日はこれず、条件付きだったので、各撮影日で役割を分担してもらった。ちなみに撮影日数は6日ほどである。
キャストも同様であった。結果として、エキストラを含む100%のキャストは学外から採用した。どうやって探したかといえば、単に歩いた。主役の友人のメアリ役は学部の子役リストの連絡先から募集を告知した。父親役は知り合いの素人に頼んだ。母親役はどうしても見つからなかったため、最終的に地元のタレント事務所で紹介してもらった。祖母役は町の植物園のボランティアをしていた保険会社の職員である。夏の間に彼女の事務所に訪問して(押しかけて)直々にお願いした。バレーのインストラクターは現実のバレーダンサーである。地元のバレー学校全てに打診し、一つ一つ訪れて場所を使わせてくれないか交渉した結果、ギリギリ一件だけが引き受けてくれた。そこの社長のバレーダンサーを役をお願いしたみたのであった。母親の兄役は知り合いハーレー乗り、友達のママは実際のママ、犬は忘れたがどこかの誰かが募集広告を見て使わせてくれることになった(犬を演じたMoeは作品の完成を待たずして亡くなってしまった。完成した後に飼い主のおじさんにDVDを送った)。キャストの広告は何枚も印刷して、町中に貼った記憶がある。エキストラのバレーダンサーたちはバレー学校の生徒たちである。これは親御さんたちに一人一人署名をもらう必要があった。そしてもちろん、子役の扱いは法律に従わなければならない。
ロケーション探しはもっともエキサイティングな経験だった。特に記憶に残っているのは病院。病院は貸してくれるところがなかった。あたり前といえば当たり前だが。大学の医室は狭いクリニックのようだったので気に入らず、補欠として留保した。おそらく電話帳にのっていた病院全てに電話したのでは? 電話しまくって、周辺の町を含んだ病院を訪問しまくって、解決策を探した末、隣町の老人ホームが改装中で今は誰もいないという情報を聞きつけるに至る。連絡先を教えてもらって、そこのオーナーと話をつけて病室がたくさんある建物を貸し切ることができたのであった。他の一筋縄ではいかなかったが、面白かったのはキャンピングカーである。キャンピングカーの外観は植物園にある物置キャンピングカーを使っており、内装に使ったキャンピングカーは実は買った。
映画のためにキャンピングカーを買った
いくらだったか忘れたが、多分1500ドルだったと思う。初めは借してくれる人を探していたが、見つからず、思いついたのは、かつて南スーダン人の監督作品をDPした時にそいつがやっていた、「買って、使って、返品する」という裏技。彼はウォルマートで小道具を買って使って返品していた。流石にこれは良心が痛んだので、売り手に全額返金ではなく返品時にいくらか渡しておいた。正式には買取という扱いだったと思う。
途中ではあるが書くことに飽きてきたので、ここら辺で切り上げることにする。MBを積極的に手伝ってくれた連中のその後は結構、何というか人間の成功とかいうものを物語っているような気がした。こいつはいいな、と思ったやつは成功し、ダメだなと思ったやつは今日でもうだつの上がらない人生を送っている、というか業界からは退いている。とかく私が目利きであると言っているわけではなく、結果的になぜかそうなった。その理由を考えてみると、安全地帯に止まって自信たっぷりプライド高いやつはまあ成長しない。人を舐めてかかるやつも同じである。私はこれをバカの典型だと呼んでいる。若さ故と連中を擁護したいところだが、若くてもバカじゃないやつはいるので、言い訳不可能である。MBを手伝ってくれた当時の同僚、そしてメインクルーのその後を見てみるに、なぜか毎日酔っ払い生活ばかりしていたような男がその後マイクロソフトに就職し、またどこかの銀行の役をもらったりするし(アメリカらしい天才だった。映画「グッドウィルハンティング」の主役のような。)、学部の同僚では週のテレビ局に就職して今では大きく出世、ある助手はArriに就職して一線で活躍している。彼らの共有点は私に対して優しかったことである。一方で、調子こいていた自称天才たちはその後ニューヨークへ友達と乗り込んでは、他の多くの若者と同じように底辺で足掻いている。もともと優秀とは言い難い大学である。思考と実力がかみ合っていない。でも仕方があるまい。損するのは自分である。宝くじを買って運に身を任せるのは個人の自由だ。まあだいたい当たらないんだけど。














































